零檎×澪樻

序章 炎の夜

高校二年生の春休み。

その夜、倶利伽羅江は、当たり前に続くものだと信じていた日常を失った。

焦げ臭い匂いに目を覚ますと、部屋の外は赤く染まり、廊下の向こうでは炎が天井まで立ち上っていた。熱気が押し寄せ、思わず腕で口元を覆う。黒煙は視界を覆い、木材が爆ぜる音と柱が軋む音だけが家中に響いていた。

「父さん! 母さん! みんな!」

何度呼び掛けても返事はない。喉が焼けるように痛み、煙を吸い込むたび激しく咳き込んだ。逃げなければならない。それだけは分かっているのに、どこへ向かえばいいのかさえ分からない。

熱で歪む視界。酸素を奪われ、肺が悲鳴を上げる。壁に手をつこうとしても、その熱さに思わず手を離した。

家も、家族も、自分も、炎は何もかもを飲み込んでいく。

足元から力が抜け、膝をつく。次の瞬間には身体が前へ倒れ込み、冷たい床の感触だけが微かに残った。

遠くから救急車のサイレンが聞こえる。

その音が近付いてきたのか、それとも遠ざかっていったのかさえ分からないまま、倶利の意識は静かに闇へ沈んだ。

◆====================◆

薬品の匂いが鼻をくすぐった。

ゆっくりと瞼を開くと、真っ白な天井が視界いっぱいに広がる。腕には点滴が繋がれ、喉は焼けるように痛い。身体は鉛のように重く、ここが病院なのだということだけをぼんやりと理解した。

しばらくして病室の扉が開き、白衣姿の医師と制服姿の警察官が入ってきた。医師はベッドの傍らへ歩み寄り、穏やかな声で問い掛ける。

「気分はどうですか。少しお話しできそうでしょうか」

倶利は小さく頷いた。しかし、声を出そうとしても喉が痛み、言葉にはならなかった。

医師と目を合わせた警察官は、一歩前へ進み、静かに口を開く。

「大変つらいお話になります。今回の火災は事故ではありません。現場の状況から、放火による殺人事件と判断し、現在捜査を進めています」

放火。

その言葉だけが耳に残る。頭では聞こえているはずなのに、現実として受け止めることができなかった。

警察官は少し言葉を選ぶように間を置き、静かに続ける。

「ご家族の皆さんは……残念ながら、お亡くなりになりました」

その瞬間、時間が止まったような気がした。

昨日まで当たり前に笑っていた父も、母も、家族も、もうどこにもいない。

警察官は犯人についても説明を続けていた。別の火災現場で発見された遺体が事件に関与した人物である可能性が高く、現在身元を確認しているという。しかし、その言葉はもう倶利の耳には入ってこなかった。

病室は静まり返っている。

静かすぎるその空間の中で、倶利の胸に浮かんだのは、ただ一つの思いだけだった。

これから、自分はどうすればいいのだろう。

◆====================◆

火傷は幸いにも軽度で済み、命に別状はなかった。

煙を吸い込んだ影響でしばらく通院は必要だったものの、医師は数日後には退院できると判断した。

それに合わせるように、家族の葬儀の日程も決まった。

退院当日。

病院の玄関を出ると、黒いスーツに身を包んだ青年が静かに立っていた。

松井江だった。

倶利の姿を見ると、松井は安心したように小さく息をつく。しかし、「大丈夫?」とも「元気を出して」とも言わなかった。

ただ倶利の肩へそっと手を置き、穏やかな声で言う。

「……行こうか」

倶利は小さく頷いた。

その一言だけで十分だった。

松井に借りた黒い礼服へ着替え、二人は式場へ向かった。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

式場には、何年ぶりに顔を合わせる江の血縁たちが集まっていた。

皆、黒い喪服に身を包み、静かに言葉を交わしている。

「大きくなったね。」

そう声を掛ける者もいたが、倶利は曖昧に頭を下げるだけだった。

焼香が始まる。

線香の香りと読経だけが静かに式場へ流れていた。

祭壇には、笑顔の家族の遺影。

その前へ進み、香をくべる。

手を合わせても、涙は出なかった。

悲しくないわけではない。

ただ、感情が現実に追いついていなかった。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

読経が終わり、参列者が火葬場へ向かうため移動を始める。

その途中、少し離れた場所で親族たちの小さな話し声が聞こえた。

「かわいそうに……」

「これからどうするんだろう」

「あと一か月で高校三年生だったんだろう? 施設暮らしなんて気の毒だ」

「誰か預かってやれんのかい?」

「うちは手一杯ですよ。おたくは?」

「うちも子どもが生まれたばかりでして……」

その言葉を聞いた稲葉が、鋭い視線で親族たちを見据えた。

その眼差しだけで「今その話をするな」と伝わるほどだった。

隣にいた富田と五月雨も静かに口を開く。

「その話は、今この場ですることではありません」

穏やかな口調だったが、その場の空気は一瞬で静まり返る。

松井は何も言わず倶利の肩へ手を添えると、「少し向こうへ行こうか」とだけ声をかけ、その場から離した。

もっとも、倶利の耳には何も届いていなかった。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

告別式。

祭壇の前には白い花で囲まれた棺が置かれていた。

家族の顔を見ることができる最後の時間。

参列者は一輪ずつ花を手向けながら、静かに別れを告げていく。

倶利も花を手に棺へ歩み寄った。

眠るような穏やかな家族の顔。

昨日まで笑っていた父。

優しく微笑んでいた母。

その姿を見た瞬間、止まっていた時間がゆっくりと動き始めた。

――本当に、いなくなったんだ。

花を置く手が震える。

胸の奥が締め付けられるように痛んだ。

何か言いたい。

ありがとうでも、ごめんでもない。

何を伝えればいいのか分からないまま、倶利は棺を見つめ続けた。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

火葬場。

ゆっくりと棺が炉の中へ運ばれていく。

その光景を見た瞬間、倶利の足は動かなくなった。

もう二度と会えない。

その現実だけが胸へ重くのしかかる。

隣へ松井が静かに並んだ。

何も言わない。励ましもしない。

ただ同じ方向を見つめ、一緒に家族を見送っていた。

やがて火葬が終わり、収骨室へ案内される。

係員の説明を受けながら、親族が順番に骨を拾っていく。

倶利も震える手で箸を持った。

向かい側では村雲が何も言わずに箸を差し出し、倶利の動きに合わせて静かに骨を持ち上げる。

骨壺へ納められていく音だけが、小さく部屋へ響いていた。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

精進落としの席では、料理が次々と運ばれてきた。

だが倶利は箸を持つことができなかった。

何も喉を通らない。

その様子を見た松井は、無理に食べるよう促さず、湯気の立つ温かいお茶を倶利の前へそっと置く。

「……ありがとう」

小さく呟き、お茶だけを口に含んだ。

温かさだけが、少しだけ身体へ染み渡った。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

その後、一行は霊園へ向かった。

喪主の豊前に促され、倶利は松井、桑名とともに霊柩車へ乗り込んだ。

静かな車内で、三人は言葉を交わさなかった。

墓前では納骨が執り行われ、親族が順番に線香を供えていく。

その途中、空が曇り始めた。

やがて、小さな雨粒が静かに降り始める。

松井は持っていた傘を開き、何も言わず倶利の隣へ差しかけた。

雨音だけが墓地に響いている。

全員が線香をあげ終え、少しずつ帰り支度を始める。

それでも倶利だけは墓石の前から動かなかった。

その背中を見つめた松井は、近くにいた篭手切へ静かに声を掛ける。

「豊前に伝えてくれるかな。もう散会でいいと思う。……倶利は、僕が見ているから」

篭手切は「わかりました」と頷くと、喪主である豊前のもとへ歩いていった。

墓前には、雨音だけが静かに降り続いていた。

どれくらいの時間が過ぎただろうか。

降り続いていた雨は少しだけ弱まり、墓前には線香の煙だけが静かに漂っていた。

倶利は墓石を見つめたまま、小さく息を吐く。

「……待たせてごめん、松井くん。行こう」

松井は何も言わず頷くと、倶利の歩幅に合わせながら傘を差した。

駐車場では、桑名が車の傍にもたれ掛かりながら二人を待っていた。

こちらへ歩いてくる姿に気付くと、静かに運転席へ乗り込み、エンジンをかける。

松井が助手席へ、倶利が後部座席へ乗り込んだことを確認すると、車はゆっくりと霊園を後にした。

車内に流れるのは、ワイパーが雨粒を払う音だけ。

誰も口を開かなかった。

窓の外を流れていく景色を眺めながら、倶利はぼんやりと考える。

今日一日で、何度「最後」という言葉を突き付けられただろう。

家族との最後の対面。

最後の見送り。

最後の別れ。

それでも心は、まだ現実を受け止めきれてはいなかった。

倶利は落ち着くまでの間、同じ京都府内にある桑名の祖父方の実家で世話になることになっていた。

住宅街を抜け、のどかな田園風景が広がる道をしばらく進むと、昔ながらの瓦屋根の家が姿を現す。

庭先には季節の花が咲き、小さな畑が家の隣に広がっていた。

桑名は車を降りると荷物を持ち上げ、玄関の戸を開ける。

「いろいろあって疲れたよね。僕はちょっと、じいちゃんの畑を見てくるから。この部屋でゆっくりしててね」

案内された和室は、畳の香りがほのかに漂う静かな部屋だった。

窓からは雨に濡れた庭木が見え、風が葉を揺らしている。

倶利は部屋の隅へ荷物を置き、小さく息をついた。

その様子を見届けた松井も荷物を下ろすと、倶利へ向き直る。

「朝も昼も、ろくに食べてないよね……何か作るよ」

倶利は反射的に首を横へ振ろうとした。

「いや、いらな――」

そこまで言いかけて言葉を飲み込む。

これ以上、周囲に気を遣わせてしまうのも申し訳ない。

少しだけ視線を伏せ、小さく微笑んだ。

「えっと、やっぱり食べるよ……ありがとう」

松井も穏やかに微笑み返す。

「何か食べたいものはある?」

そう尋ねられても、何も思い浮かばなかった。

空腹のはずなのに、何が食べたいのかさえ分からない。

倶利はゆっくりと首を横へ振る。

「特にないかな……おまかせで」

「分かった」

松井はそれ以上は聞かなかった。

静かに襖を閉めると、台所のある方へ歩いていく。

やがて、包丁がまな板を叩く軽やかな音が聞こえ始める。

玉ねぎを炒める甘い香り。

鶏肉に火が入る音。

味噌汁の湯気とともに、あさりの出汁がゆっくりと立ち上っていく。

その香りは、病院で毎日嗅いでいた消毒液の匂いとはまるで違っていた。

どこか懐かしくて、どこか安心する。

それは、誰かが自分のために作ってくれる「家の匂い」だった。

「できたよ」

松井に呼ばれ、倶利は居間へ向かった。

食卓には、湯気の立つ親子丼と、あさりの味噌汁が並んでいる。

ほかほかと湯気を立てるご飯の上には、とろりと半熟に仕上がった卵。

味噌汁からは、優しい磯の香りが漂っていた。

「食欲がなくても、お味噌汁だけでも飲めるといいんだけど」

松井はそう言って、自分も席に着く。

二人は静かに手を合わせた。

「いただきます」

倶利はまず味噌汁へ手を伸ばした。

椀を口元へ運ると、あさりの旨味がじんわりと身体へ染み渡る。

温かい。

その一言に尽きた。

続いて親子丼を一口。

優しい出汁の味が口いっぱいに広がり、柔らかな卵がほどける。

病院の食事とは違う。

誰かが、自分のために作ってくれた味だった。

気付けば、もう一口。

また一口。

夢中というほどではない。

けれど、箸は止まらなかった。

食べ終えた頃には、器はきれいに空になっていた。

松井は空になった茶碗を見て、小さく微笑む。

「お粗末さまでした」

倶利は箸を置き、少しだけ照れくさそうに笑った。

「……ごちそうさま。おいしかった」

その一言だけで十分だった。

松井は「全部食べられたね」とは言わない。

ただ、「口に合ってよかった」と穏やかに返し、空になった器を静かに重ねた。

食器を片付けようと立ち上がった松井が、ふと思い出したように振り返る。

「そうだ。食後のデザートもあるけど、食べる?」

倶利は少しだけ驚いたように目を瞬かせた。

さっきまで何も喉を通らないと思っていたはずなのに、不思議と「いらない」という言葉は出てこない。

小さく頷くと、松井は「待ってて」と微笑み、台所へ向かった。

ほどなくして、お盆を手に戻ってくる。

ガラスの器には、きな粉をまぶしたわらび餅。

湯気の立つ湯呑みには、鮮やかな緑色の抹茶が点てられていた。

「甘いものは少しだけ気持ちが落ち着くから」

松井はそう言って、倶利の前へ器を置く。

きな粉の香ばしい香りがふわりと漂う。

倶利は木の楊枝でわらび餅を一つ口へ運んだ。

柔らかな弾力と、ほのかな甘さが静かに広がっていく。

続いて抹茶を一口飲む。

ほろ苦さのあとに残る優しい甘みが、親子丼の余韻をゆっくりと包み込んだ。

二人の間には、心地よい沈黙が流れる。

無理に会話を続けようとしないその空気が、今の倶利にはありがたかった。

しばらくして、松井は湯呑みをそっと置いた。

「……倶利」

穏やかな声だった。

けれど、その声音には少しだけ迷いが混じっている。

「さっき親戚の人たちが話していたこと、聞こえてはいなかったみたいだけど……」

倶利は黙って松井を見つめた。

「これからのことなんだけどね」

一度言葉を切り、小さく息をつく。

「無理にとは言わない。君の気持ちを一番大事にしてほしい」

そう前置きしてから、松井はゆっくりと続けた。

「僕は今、静岡の浜松市でアロマテラピーのお店をやっているんだ。最近ようやく軌道に乗ってきて、人手が欲しいと思っていてね」

倶利は静かに耳を傾けている。

「住み込みでアルバイトをしてくれたら助かるなって思ってる」

押し付けるような言い方ではなかった。

まるで、「選択肢の一つとして覚えておいてほしい」と伝えるような口調だった。

「君、前に言っていたよね。プラネタリウム・ドームを中心とした映像制作をするクリエイターになりたいって」

その言葉に、倶利の肩がわずかに震えた。

中学生の頃にプラネタリウムに魅せられて将来の夢を話したことを、この従兄弟は覚えていてくれていた。

「夢を諦めないでほしいんだ。倶利の学力なら、特待生だって十分狙えると思う」

部屋に静寂が戻る。

わらび餅の甘さが、少しだけ薄れていくような気がした。

倶利は俯いたまま、自分の膝の上で手を握る。

将来の夢。

その言葉を聞くだけで、胸が苦しくなる。

家族がいなくなった今、自分はそんな夢を見てもいいのだろうか。

長い沈黙の末、倶利はゆっくりと顔を上げた。

「……松井くん」

その声は、どこか力なく、それでも確かに前を向こうとしていた。

「提案してくれてありがとう」

一度言葉を切り、小さく笑う。

「……ちょっとだけ、考えさせて」

松井は穏やかに頷いた。

「もちろん、返事は急がなくていいよ」

その一言に、倶利は少しだけ肩の力を抜いた。

今はまだ答えを出せない。

それでも、自分の未来を一緒に考えてくれる人がいる。

その事実だけは、今日初めて心を少しだけ温めてくれた。

◆====================◆

翌朝。

障子の隙間から差し込む柔らかな朝日で目を覚ました倶利は、身支度を整えるため洗面所へ向かった。

冷たい水で顔を洗い、顔を上げる。

鏡に映った自分を見て、思わず動きが止まった。

「……え」

黒かった前髪の一部が、白く染まっている。

寝癖でも、光の加減でもない。

恐る恐る指先で触れてみても、やはりそこだけ色が抜けていた。

昨日まで、こんな髪ではなかった。

「松井くん……!」

少しだけ慌てた声に、廊下から足音が近付いてくる。

「どうしたの?」

洗面所へ入ってきた松井も、鏡を見た瞬間に息をのんだ。

「……髪」

倶利は鏡から目を離せないまま、小さく呟く。

松井は驚いた表情を浮かべたものの、すぐに落ち着きを取り戻した。

「一度、お医者さんに診てもらおう」

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

診察を終えた二人は、病院を後にした。

担当医はカルテを閉じながら、静かに説明していた。

「髪や頭皮に異常はありません。おそらく、極度の精神的ショックが原因でしょう」

医師は倶利の前髪へ目を向ける。

「強い精神的負荷を受けると、ごく稀にメラニン色素の働きへ影響が出ることがあります。今回も、その可能性が高いと思われます」

「治りますか?」

松井が尋ねる。

「今の段階では何とも言えません。元に戻る方もいれば、そのままという方もいます。ただ、健康上の問題はありませんよ」

松井は静かに礼を述べ、診察室を後にした。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

帰り道。

車内には穏やかな音量でラジオが流れていたが、誰も耳を傾けてはいなかった。

松井はハンドルを握りながら、前方を見つめたまま口を開く。

「……染める?」

助手席の倶利は、自分の前髪へそっと触れる。

しばらく考えた後、小さく首を横へ振った。

「いや、このままでいい」

その声は昨日よりも少しだけ強かった。

「家族を忘れないように」

短い言葉だった。

けれど、その決意は十分すぎるほど伝わってくる。

松井は隣へ視線を向け、小さく微笑んだ。

傷跡のような髪色。

それを隠そうとせず、自分の一部として受け入れようとする姿が、不思議と凛々しく見えた。

「……かっこいいね、倶利伽羅江」

その一言に、倶利は照れくさそうに眉を下げる。

「急に何」

少しだけ頬を赤くしながら窓の外へ顔を向けた。

その横顔を見て、松井はそれ以上何も言わなかった。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

赤信号で車が停まる。

何気なく窓の外を眺めていた倶利の視線が、一つの大型ディスプレイで止まった。

駅前のショーウインドウ。

そこでは、静岡県浜松市にある「塔軒大学」の紹介映像が流れていた。

音声は車内まで届かない。

それでも映し出される映像だけで、その大学が何を目指しているのかは十分に伝わってきた。

最先端の映像制作設備。

CGスタジオ。

モーションキャプチャールーム。

プラネタリウム・ドーム型シアター。

そして画面には、大きくこんな文字が映し出される。

『来年度、空間クリエイター育成プログラム開設予定』

プラネタリウムや没入型映像空間を専門的に学べる新カリキュラム。

その文字を見た瞬間、倶利は息をのんだ。

――こんな偶然、あるんだ。

まるで誰かが背中を押してくれているような、不思議な感覚だった。

信号が青へ変わる。

車がゆっくりと走り出した。

しばらく黙っていた倶利は、小さく口を開く。

「ねぇ、松井くん」

「ん?」

「塔軒大学って……倍率どのくらいかな。一般じゃなくて、特待生の場合」

松井は少しだけ驚いたように目を丸くする。

「塔軒大学?」

すぐに思い出したように頷いた。

「ああ、特待生なら偏差値七十七くらいだったかな」

倶利は小さく計算するように呟く。

「今、七十くらいだから……今年、猛勉強すれば……いけるかな」

松井はくすりと笑う。

「お望みなら、偏差値八十五の大学に通っていた僕が、家庭教師をしてあげようか」

助手席の倶利が驚いて振り返る。

「いいの? ……松井くん、お店あるのに」

「うん。一日一時間くらいなら大丈夫だよ」

松井は前を向いたまま、穏やかに続けた。

「一緒に住むなら、時間の都合はいくらでもつけられるしね」

倶利は何も答えなかった。

けれど、その横顔には昨日までの絶望とは違う、小さな迷いと、小さな希望が同時に宿り始めていた。